我が相棒との日々を-Vol.1

2019年12月31日11:00
独身時代からの相棒であった睦(むつ)【豆柴・雄】が13歳で息を引き取りました。

仕事に追われて寂しい思いをたくさんさせたな、という後悔もあるけれど、彼と過ごした13年の年月の中で、私が学んだことも多く、実に様々な気付きを示唆してもらえました。独身だった私との二人暮らしから始まった彼との生活も、次第に家族が増えて彼の役割も徐々に変わっていったように感じています。

大晦日にお別れをして、まだ彼が過ごした場所に温度が残っているような感覚があるうちに、彼との思い出を残し始めておきたいと思い、気まぐれに綴っておこうと思います。多くの方に読んで頂きたい、というよりは自分自身の忘備録のような感覚なので数々の至らない点もあるかと思いますがご容赦下さい。

【出会い】
私は三兄弟の次男ですが、兄と私は大学卒業後に実家を離れ、その数年後、弟も就職と共に実家を離れていきました。男三兄弟を育てるだけでも大変だったと思いますし、特に私は大変に苦労をかけた子でしたので、子どもが全員、実家を離れたら一気に張り合いがなくなったのか、体調を崩すようになりました。
そして、母に悪性腫瘍が見つかり、手術をして回復をしたのですが、その後の精神的な回復までは至らず、精神的に随分と落ち込んだ状態が続いていました。
そこで、母が昔、柴犬を飼っていたことを思い出した父が、犬を飼えばまた張り合いが出てくるのではないか、と考えて豆柴を1匹飼うことにしたのです。

しかし、これが結果的に裏目に出てしまいます。
当初は犬を飼うことに母も喜んではいたのですが、いざ決まってみると我が家に犬が来る日が近づくにつれて、新たな命を預かることに対する重圧が母には大きなプレッシャーとなってしまったようで、心身の不調が大きくなり、急遽キャンセルするという事態になってしまいました。

ただ、当時は母の精神的な状態も良くなく、どうにか回復の糸口が見つからないものか、と模索していた時期でしたので、当時の私は大した甲斐性もありませんでしたが、母が自分で犬を飼うのではなく、独り暮らしをしていた私が犬を飼って、実家に連れて行った時に可愛がってもらえれば、少しは解決になるのではないだろうか、と思って父と相談し、私が豆柴を飼うことになったのです。

2007年1月、まだ寒い時期でした。
羽田空港に行き、貨物カウンターにて飛行機の長旅をしてきた子犬を受け取りました。
寒い状況を予想してケージの内部にはカイロがたくさん張り付けてありました。
しかし、初めて抱き上げた際は全身が嘔吐したものでまみれており、相当に乗り物酔いをしたのだろうと、帰宅後にぬるま湯で洗い流し、暖を取り、ミルクの準備をしました。

この乗り物酔いはずっと変わることはなく、車に乗っても酔い、電車に乗っても酔うという状況で、長距離移動は彼にとって最後まで苦しんでいました。(大きくなってから獣医さんから酔い止めの薬を処方して頂き、旅行の際は車でぐっすり眠って移動ができるようになったのですが、サービスエリアで定期的に一息入れて、気分転換をしないといけませんでした。)

さて、話が前後しますが子犬を迎えるために私はペット専用マンションに引っ越しをし、1階に共用のトリミングルームがあり、私の部屋のドアにはペット用の出入り口がついているという仕様のマンションでの二人暮らしがスタートしていました。しかし、初めて犬を飼うだけでなく、子犬を育てるという大役を担うことになり、新生活の初めから試行錯誤の連続となりました。

例えば、エサはドックフードを与えればOKと思っていたらとんでもない。
まだ生後2か月過ぎた赤ちゃんなので、温かいミルクを用意する必要がありました。
お湯を沸かし、犬用の粉ミルクを溶かし、人肌に冷まし、哺乳瓶で飲ませる。
飲み終われば口周りを拭き、哺乳瓶は煮沸消毒をして清潔に保つ・・・
子育ても未経験な独身男性にはなかなかハードルが高く、すべての生活が新しい我が子犬中心に変わっていきました。

けれど、不思議なもので、この子のためにと思うと面倒な気持ちにはならず、一生懸命になれる自分がいて、この時の経験は結婚後、長女が誕生した後に活かせたのではないかな、と実感しています。

さらに、こんな赤ちゃんを置いて仕事にいけるはずもなく・・・
当時は大手進学塾に勤務をしていたのですが、無理を言って1週間有給休暇を取り、短いながら育休を取得した気分で子犬との生活に専念したのです。

さて、すっかり忘れていたのですが
やらなければいけないことがありました。

まずは名前をつけよう。

両親からも名前は何にしたのか、と聞かれていたのですが、きちんと出会ってからの印象で決めようと思っていたので、名前を決めずにいたのです。
そして、いざ二人になってじっと見ていると、とにかく甘えん坊のこいつはきっと家族を再び結びつける存在になってくれるのではないか、と感じたのと、初めての出会いが1月であったことを結び付けてみようと考えました。

1月は睦月と言いますが、これは睦び月(むすびつき)が「睦月」に転じたと言われています。家族や親族が正月に集まるイメージなのかも知れませんが、兄弟もそれぞれ独立し、家族が離れてしまったけれど、これを機会にむすびつきが強くなれば、という願いを込めて、睦び月から「睦(むつ)」という名前をつけました。

そんな感じで始まった二人暮らしですが、とにかく気が弱く、甘えん坊の睦は、本当に可愛い子どものようで、どうしても「躾」をしないといけないのに甘やかしてしまったと反省していますが、なかなか飼い主孝行の賢い子でトイレや部屋のルールなどあっという間に覚えてくれました。

そのあたりのお話はまた次回に・・・

学習する空間づくりから始めよう-Vol.2

今回のテーマ:世界観を徹底する

学習する空間を作る上で、最も大切なことは、生徒の呼吸を見て展開するということだと考えています。どれだけ授業の「型(カタ)」がしっかり構築されていても、そこに「血(チ)」が通っていなければ ”カタチ” にはなりません。

要は、どれだけ授業準備をし、学習指導案を計画しても、生徒との呼吸があっていない、授業コミュニケーションが成立していないのなら、そのほとんどは伝わらずに終わってしまいますし、効果も半減するということです。

面白い展開を考えれば問題ない、と言われたりもしますが、すべての授業で毎回、題材だけで生徒を引き付ける授業を展開するというのは理想的ではありますが、現実には相当に難しいものです。そして何より、”面白くなければ聞かなくてよい” という隠れたカリキュラムを仕込むようなもので、社会に出て周囲が自分に迎合し、興味を持たせてもらえないなら指示も聞けないという人物を育てたところで生きる力の育成とはならないように思います。

もちろん、興味を引き出す授業事態を否定している訳ではありません。
要は毎回、そうでなければならない、という縛りから離れて、題材とは関係なく、当たり前に生徒と授業コミュニケーションが成立する空間を構築することから始めた方がずっと教育的なのではないか、ということなのです。

以前は私も若く、面白い授業を毎回やれない方が悪い、という感覚がありましたが、実際に学校の現場に入り込んでみると、なかなか実現するのが難しいというのが現実でした。引き付ける題材を作り、興味を持たせる、というのはあくまでも生徒を授業に向かせる手段の一つであり、生徒を向かせる方法はそれだけではない、ということを学び、もっと肩の力を抜いて継続できる授業づくりをすることがもっと大切なのではないかと思います。

では、生徒が聞く姿勢を作るにはどうすれば良いのか。

学習する空間を作る要素はたくさんあり、それらを一つ一つ点検していくことで少しずつ空気感ができあがっていきます。
私はよくディズニーランドに例えるのですが、ディズニーランドはなぜリピーターが多いのかというと、アトラクションに乗りたいから、というよりも「あの世界観が好きだから」ということに行き着くのではないでしょうか。
もし、アトラクションそのものに求心力があるのだとすれば他の遊園地でもリピーターがもっと増えるはずです。それがディズニーランドの場合だけあれだけ熱烈なファンが獲得できるのはそうした世界観の賜物だろうと思うのです。(誇張していますが・・・およそのイメージが伝われば幸いです)

Q:ディズニーランド、ディズニーシーの魅力的な点を挙げるとしたらどこですか
「東京ディズニーリゾートに関するアンケート」2005年より
インターワイヤード株式会社が運営するネットリサーチ「DIMSDRIVE」による調査結果

この結果を見ても、園内の雰囲気が良いという割合が62.8%を占めています。他のテーマパークの調査結果も見たいところですが、ショーやパレード、アトラクションもこの世界観だからこその魅力と考えることができるのではないか、と私は捉えています。
だから、ディズニーランドでは「テーマ性に基づいた演出の徹底」が行われているのであり、細部にまで世界観を創り上げるための工夫が凝らされているのです。

では、授業はどうか。

生徒は先生の姿というフィルターを通して授業を見ています。
その先生が作り出す世界観が授業の重要な要素である、という事実は疑いようのないものだと思います。

そのとき、教師がその世界観をどのように演出し、徹底していこうとしているのか、が当然問われてくる訳です。
ですから、「これをやったから生徒が聞くようになる」という魔法など存在しないということが見えてくるのではないでしょうか。

では、どうするのか。

それこそが「学習する空間づくりを徹底する」ということで、たくさんの要素を確認しながら「自分ならこう徹底する」という実践を積み重ねていけば良いのです。

そこで初めにお伝えする要素は
「生徒に背中を向ける時間を限りなく短くする」
ということ。

当たり前のことなのですが、授業研修をしていると意外とできていない要素なのです。
板書をしている間は仕方がないですよね。と言いつつ、何分も生徒に背を向け、そのまま問いを発し、生徒を見ずに書きながら返事をして、また書く・・・

この動作を繰り返している内に、生徒は先生の背中を見たままで授業が終わる。

これの何がまずいのか。
これは実際にペアでワークをやってみるとよく分かります。
お互いに目が合った状態で言葉を投げかけられると、明確に自分へメッセージが投げかけられた、と感じて無視をする方が辛くなります。しかし、こちらを見ていない相手から言葉をかけられても、他人事のように聞き流しやすくなるのです。

要は目線が合うと当事者意識を生み、合わなければそれが薄れる。ただ、全員に目線を合わせるのは難しいので、身体の正面を向け、ポイントごとに生徒へ目線を送るということを行ないながら、「クラス全体に対してメッセージを発している意思表示」を行なうことが大切なのです。

それがなく、生徒に対し、明確な意思表示をしないままであれば、生徒の当事者意識も当然薄れていき、聞こうという意欲も低下していくのは必然という訳です。

ですから、
”私は皆さんに伝えたいことがある”
という意思表示をし、世界観を徹底するためにも、まずは「生徒に背中を向ける時間を限りなく短くする」ということから始めて頂けたらと思います。

その手法、テクニックもいくつかありますのでまた改めてご紹介致します。

ではまた。

AIの判断

思考実験ーテーマ「AIの判断」

皆さんはどう考えるだろうか。

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AIの発展によって、その精度は次第に高くなっていくことだろう。一人の人間が知っている世界の何十、何百倍もの情報を蓄積し、そのビックデータを駆使して分析をした結果によってもたらされる判断は、一個人の人間が行なう一面的な情報に基づいた判断と比べて正確であるに違いない。

いずれはウェアラブルデバイスなどで常に近未来の予測データが示され、どこに向かうとしても、何をするにしてもAIの指示に従って行動する世界になることだろう。

そして、商品開発や営業先でのトークにしても、AIの分析に基づいた通りの判断に従わないで失敗した時、きっと上司からこう言われるに違いない。

「なぜ、AIの判断に従わなかったんだ!?」と・・・

そこで自分の勘や経験を切々と説いたところで、一個人の一面的な情報に基づいた判断など相手にされるはずもない。

そして、自分で考えることを止め、AIにすべての判断を委ねる社会が完成していく。

果たしてそのような未来において、教育とは何のために必要なのだろうか。そしてこれは人類にとって、文明的な進化と言えるのかも知れないが、生物的には退化と言えるのかも知れない。しかし、私たちはすでに様々なテクノロジーによって便利さを追求した結果、着実に生物としての退化が進んでいるという現実を受け止めた方が良いのかも知れない。

例えば、計算機の発展によって暗算する力が衰えている。自動車や電車などの交通手段の発展によって行動範囲は広がったが、人間自身の足腰は退化している。食べやすさを追及した結果、柔らかい食べ物が増えて噛む力が低下している。など・・・

人間は様々な生物的な退化に対して、危機感を抱いてこなかった。楽になること、便利になることがこれまで通り優先されるのなら、AIの判断にすべてを委ね、AIに生かされている人間社会という未来がやってくるのも遠くないかも知れない。

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勉強会(東京)

2020年度から勉強会を開催したいと思います。

第1回 テーマ「探究学習をどう扱うか」

2022年度から始まる高校の新課程では探究が大きなキーワードとなっています。私立中高一貫校で探究プログラムに関わっている経験やSSHでの事例なども交えてご紹介できることや情報交換などもできればと考えています。

1.探究の目的は何か
2.調べ学習で終わらない探究にするために
3.事例紹介

初回なので上記の3点に絞りながら進めたいと思っています。

日程は2020年3月を予定していますので、決まりましたらこちらに再度記載させて頂きます。

学習する空間から始めよう-Vol.1

今から15年くらい前から進学塾の講師育成の研修を担当し、執筆をさせて頂いたことをきっかけにして、学校での授業力向上をテーマとした研修を数多く実施させて頂きました。

その中で共通していたテーマは「学習する空間をつくる」ということでした。

塾や予備校でどんな知識を教えていたか、なんて話はしても仕方がないと思いますし、学校と塾は違うと言われてしまえばそれまでです。塾で指導をしていた私が何を求められて研修に呼ばれるのか、という点を突き詰めていった先にたどり着いたテーマがこれでした。

どれだけ授業準備をしても、生徒にそれを受け止める準備ができていなければ、上手く伝えることができずに効果は激減していく。

当たり前のこと、なのですが、意外と難しい。

キャッチボールで例えるのなら、相手がグローブを持っていなく、こちらを見てもいないのに、ボールを投げたとしても、恐らくはボールをキャッチすることができないでしょう。それどころか、危ないですよね・・・

授業ではそのような危険性は生じないかも知れませんが、生徒に聞く準備ができていない状態で話をしても、キャッチボールでボールを逸らしてしまうのと同じように、授業で伝えようとしている肝心な内容を受け止めてもらえないという現象は容易に想像可能です。

ですから、どんなに上手に話をする練習をしても、どれだけ解説の流れに工夫を凝らしても、その部分が欠けてしまっているのなら、その授業の魅力が半減してしまう。それが「学習する空間づくり」だと考えています。

私は2008年に出版をした際にこの「学習する空間づくり」を中心として執筆をしていたのですが、その後、続編を執筆しようとして2回ほど途中で止めてしまいました。なぜなら、この「学習する空間づくり」に自信を持っていた半面で、授業規律を整えることに力点が置かれ、管理する手法としてクローズアップされるようになり、自分もそこに応えていく内に初めに考えていた理想の授業像から離れていくギャップを感じていたからです。

しかし、学校教育の現場に関わるようになって10年が経過し、本当に数多くの授業を拝見させて頂いたり、生徒との関りを持ったり、ディスカッションを重ねさせて頂く中で再び、「学習する空間づくり」の重要性について考えるようになりました。そこで、これを機会として原点に帰り、このカテゴリーでは「学習する空間づくりから始めよう」というテーマで授業づくりについて論じていきたいと思います。

さて、早速、原点に帰る上で、「学習する空間づくり」とは何のために必要なのか。という点を明確にしておきたいと思います。

それは「生徒が主体的に学ぶことにチャレンジしたくなる環境を整えるため。」

強制的に自分の話を聞かせることが主目的ではありません。授業規律も上記の環境を整えるための条件の一つで、お互いに安心して学ぶことができる環境を整えるための土台です。

大切なことは、授業内容の中に込められた魅力が教師というフィルターを通して、余すことなく生徒に伝わり、生徒がより主体的に学びたいと思えるきっかけを作ることができる空間になっているかどうか、ということだと思っています。

授業はあくまでもきっかけに過ぎない。けれど、そのきかっけをどのように提供するかで価値が大きく変わる。

この点はとても重要で、この授業観が理解できなければ、「学習する空間」の意味が大きく変わってしまうのです。どういうことかと言うと、1から10まで全部、教え込むことを目的としてしまうと、どうしても詰め込む効率を重視したくなり、生徒の主体性より強制力と規律性が優先され、「学習する空間」は「強制の空間」に早変わりしていくということなのです。

けれど、「生徒が主体的に学ぶことにチャレンジしたくなる環境を整える」ということを目的とするのなら、「学習する空間づくり」は再び大きな意味と価値を持つようになるのです。

その願いを込めて「学習する空間づくりから始めよう」というテーマで授業づくりの考え方を連載していきますので、どうぞよろしくお願いいたします。